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マーリンアームズ株式会社

DHC翻訳若葉荘「本日の講義」

第5回 初めての翻訳書の話

ここまで私がもう20年以上開発を続けている翻訳ソフト(機械翻訳)のお話をしてきました。だいぶ細かな話になってきましたので、前回取り上げた開発中の新翻訳ソフトのお話でいったん区切りをつけて、さらに細かな話は「機械翻訳 しっかり入門」の方に譲ることにします。

次回からは、インターネットなど最新のコンピュータ環境を利用した翻訳作業の効率化のお話をしようと思いますが、今回は技術的な話を少し離れて、翻訳ソフトを作っていた私が、なぜ20冊以上の翻訳書を出すことになったか、そのきっかけをお話ししましょう。技術翻訳を目指す皆さんの中にも、チャンスがあれば本を1冊訳してみたいと思われる方もいらっしゃることでしょう。

私の最初の訳書は『マッキントッシュ物語』(翔泳社刊)という本でした。

「まず目に焼き付いたのは『ライト』だった」。この本の書き出しは、10年以上たった今でもはっきりと覚えています。アップルコンピュータが開発した、そして私も1986年以来愛用している「マッキントッシュ」というパソコン誕生の悲喜こもごもを、『Newsweek』などにも寄稿しているSteven Levyが熱く描いたノンフィクションです。やっぱり最初の本が出るときはうれしかったですね。もうじき本が発売されると言うときには、「今、交通事故にあって死んでしまったら、自分の本が見られない。気をつけなくちゃ」なんて本気で思ったものでした(ところで、メルマガ第1回に登場した河野先生が最初に訳された本もリンゴ関係でした。偶然ですね)。

何度かお話ししたように、私は(人間)翻訳を始める前から、(機械)翻訳ソフトの開発をしてきました。訳書を出したいと強く望んでいたわけでもなかった私が、どうしてこの本を訳すことになったのでしょうか。

話は、私が最初の(そして多分最後の)サラリーマン生活を送っていた1980年代の中頃に戻ります。大学院の修士課程を修了し、小さなソフトウェア会社に就職して、翻訳ソフトの開発を始めたばかりのある日のことです。地下鉄の駅を降りて会社へ向かう道。どこかで見たような顔の人が、隅田川に架かる佃大橋を渡ってこちらに歩いてきます。「確か大学で同期の奴だよな」と思いつつ、そのときはお互いに相手の顔を見ながら言葉もかけずに通り過ぎました。その後も何回かそんなことを繰り返したのですが、ある朝、私は意を決し「XX大学ですよね?」とその人に尋ねてみました。
「ええ。Mといいます。多分、G君ご存じですよね? 彼と同じ寮にいたんです」
「ああ、あの寮にいたんですか…」
と、しばし大学時代の話をして、「それでは、また」と特に約束もせずにお互いの道を急ぎました。その後も、同じ場所で2、3度顔を合わせましたが、サラリーマン生活に1年で別れを告げてしまった私は、橋を渡ってくるMさんの姿を見ることもなくなってしまったのです。

未練が残っていた研究を続けたくて大学に戻り、米国留学(や学生結婚)も経験したのの、私は「やっぱり『もの』を作りたい。いわゆる『研究』をするのではなく、他の人に使ってもらえるソフトを作りたい」と強く思い始めます。そうは言っても資金がないことには始まりません。以前別の職に就いていた家内が翻訳を始めたこともあり、自分が作った翻訳ソフトの試験も兼ねて、コンピュータ関連のマニュアルなどの翻訳を始めることにしました。(当時はインターネットはありませんから)新聞などの求人欄を見ていくつかトライアルを出します。専門知識が効いたのか試験にはほとんど合格、その中の2社から定期的に仕事をいただいて、家内と一緒に決して表に名前の出ることのない仕事をしていました。

そんなある日、学生時代の友人のG君から結婚式の招待状が届いたのです。私はG君を結婚式には招待しなかったのですが。参列した私の隣に数年ぶりで見るMさんが座っていました。
「お久しぶりです」
「お元気ですか。今何してます?」
「コンピュータ関係の翻訳書の編集やってます」
「あ、そうですか。私も翻訳やってます。何かあったらお願いします」

数ヶ月後、Mさんから電話が来ます。
「おもしろそうな本があるんですけど、武舎さんのこと思い出したんです。ピッタリかなと思って」

それからさらに数ヶ月後の1992年2月、自分の本が平積みになって並んでいるという、翻訳者を目指す人の多くが夢見る光景を、目にすることができたのでした。実はこのとき、家内はある先生の下訳者になっており「もう少しすれば自分の訳書が出せるかも」とがんばっていたのですが、そんな家内を出し抜いて、私がデビューを果たしてしまったのでした。

私の幸運はまだまだ続きます。発売翌週の日曜日、帰省していた私は早朝家内からの電話を受け取ったのでした。
「『マッキントッシュ物語』がベストセラーの2番目に載っているよ!」

「これで私もベストセラー翻訳者の仲間入りか」と喜んだのは大外れ。じつは、この7月に突然閉店してしまった「青山ブックセンター」というちょっとマニアックな品揃えを誇る本屋さんでの「最大瞬間風速」が偶然新聞に載っただけだったのです。結局この本は1回増刷されただけで、あえなく絶版となってしまいました。

ある読者からのメール

さて、絶版になってから数年後、突然見知らぬ人からこんなメールが届きました。「火事で家が焼けてしまって、一緒に『マッキントッシュ物語』も灰になってしまいました。とても思い出深い本なので、また読みたいのですが、絶版だと言われてしまいました。何とか1部わけていただけませんか」。手元に残っていた2冊のうちの1冊を送って差し上げました。「お代は結構です」と書き添えて。だって、そんなに思ってくださる方がいらっしゃるのが、めちゃめちゃ嬉しかったのです(結局、定価分の切手を送っていただきましたが)。

この本との縁はまだまだ続きます。初版発行から8年後の2002年、復刊ドットコムに数多くのリクエストが寄せられ、めでたく復刊されたのでした。「熱い」読者がたくさんいてくださったのです。訳者冥利に尽きる出来事でした。

この本がすべてのはじまり。その後、別の出版社に移った編集者のMさんと一緒に20冊近くの本を出版し、一時はコンピュータ関連書籍の売り上げベスト20に3冊も顔を出すという幸せな瞬間を味わったりもできたのでした。皆さんとこうしてお目にかかることになったのも、この本が始まりというわけです。

さて、「武舎は運だけで本を出版したのか」と思われると困るので、ひとつだけ強調しておきたいと思います。確かに、チャンスがやってきたのは偶然でした。しかし、それまで大学や企業で専門知識を身につけ、またしっかり翻訳の訓練を積んでいたからこのチャンスをものにできたのです。Mさんに最初の原稿をお送りしたとき、「驚きました。これならそのまま出せます」と言わせるだけの実力が備わっていなかったら、きっと私の名前は訳者欄には載っていなかったでしょう。

幸運の女神が馬に乗ってやってきたとき、前髪をつかんで離さないよう握力を鍛えておくこと、それが一番大切なのではないでしょうか。私の経験上、幸運の女神は何度か現れますが、力がなければ前髪をつかむことはできないのですから。


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