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異境 (オーストラリア現代文学傑作選) デイヴィッド・マルーフ著 武舎るみ訳

訳者あとがき

デイヴィッド・マルーフの代表作のひとつ、Remembering Babylon の邦訳を日本の読者の皆様にお届けできる日がようやくやって来た。オーストラリアの友人から紹介され、そのすばらしさに惚れ込んで無謀にもさっそく翻訳を始めてしまったのが十二年前のこと。以来、作品の持つ力を信じてひたすら推敲を重ねてきた。感慨ひとしおである。

それほど惚れ込んだこの小説を日本の皆様にどう紹介したらよいかと頭を悩ませているうちに思い浮かんだ特徴は三つ。ひとつはマルーフの言葉に対する強い思い入れである。言葉の持つ不思議な力、異言語に接したときの違和感や驚きや新鮮さを、詩人でもあるマルーフがその繊細な言語感覚を発揮し、言葉の持つ「霊力」を自ら駆使して表現している。たとえばこの『異境』には、アボリジニに育てられた少年ジェミーが開拓村の白人社会に戻ったことがきっかけとなって、幼い頃使っていた英語と、それにまつわる物事が記憶の底からよみがえってくる場面がいくつもあるが、そうした場面が言葉の不思議さを読み手に改めて意識させる。ジェミーがふだん使っていたアボリジニの言葉とは違う、幼い頃の言葉がいきなり意識の表面に浮かび上がってくるときの奇妙な感覚がとてもリアルに表現されている。また、言葉にしてしまうと良きにつけ悪しきにつけ現実の世界に何らかの影響を及ぼすという日本の「言霊(ことだま)」にそっくりな感覚を、白人開拓者に心のうちで語らせている場面もある。さらに、Remembering Babylon に並ぶ代表的作品 An Imaginary Life では、性的描写の多い詩を書いてアウグストゥス帝の不興を買い、僻地へ流されたという古代ローマの詩人オウィディウスが、僻地の「野蛮人」と苦労のすえ意思疎通をはかり、現地語を習得していく過程が面白く描かれている。言葉に対するこうした畏怖の念、驚き、好奇心、興味、愛着といった感覚、感情を、マルーフは詩のように美しい流れやリズム、イメージ喚起力のある散文で表現している。ひとつのパラグラフが一文から成るような長い文が多く、流れで一気に、リズミカルに読ませ、研ぎ澄ました言葉で鮮烈なイメージを浮かび上がらせる。

二つ目の特徴はこの作品でたびたび出てくるアボリジニの神秘的な世界である。主人公のひとりであるジェミーを通して紹介されるアボリジニの世界観、宗教観は、万物に神が宿るとする日本人の自然観とよく似ている。たとえば、現地の植物を広範に調べて初めての図鑑を作ろうとしている牧師をジェミーが案内して、ともに山を歩きまわる場面がある。ジェミーの眼前にはさまざまな精霊が宿りエネルギーに満ちあふれた神秘的な大自然が展開していくのだが、牧師の目には草木や鳥しか映らない。その土地を「なわばり」としているアボリジニがたまたまそこに居合わせても気づきもしない。フィクションでありながら迫真性に富んだアボリジニ独特の世界は、著者によるとこれまでに読んだり聞いたりしたことを基にして描き出したものだそうで、ごく親しい知人がアボリジニにいるとか、長期にわたって取材したとかいうことはないらしい。それにしてはあまりにもリアルな世界、あまりにも美しくて神秘的なアボリジニの世界がある。この世界はおもにジェミーの目を通して語られているが、白人の村人の中にもひとにぎりだが心の自由な人がいて、そういう人々はこの世界を理解し自分の中に取り入れてしまうと同時に、この世界に取り入れられることをすんなり許してしまう(これが如実に表れているのが十五章の養蜂のエピソードで、ここはアボリジニの世界を描いている中でも格別印象に残る場面である)。こうした人々こそがオーストラリアを真の意味で自分の祖国にし、そこにどっしりと根を張り、次世代へと確実につないでいった建国の祖なのだろう。

そして三つ目は「孤独」。マルーフの小説には孤独な人物が数多く登場する。『異境』も例外ではなく、大勢の登場人物が各人各様の孤独を抱えている。十九世紀のロンドンに生まれながら数奇な運命に翻弄され、開拓初期のオーストラリアで何年もアボリジニと暮らし、ある日自分から白人社会に戻ってきた青年ジェミーが、それまでとは打って変わって複雑な人間関係に巻き込まれ、次第につのらせていく疎外感と違和感。ジェミーを引き取ったことで、アボリジニを恐れる村人たちから孤立していく一家。アフリカでの冒険を通して男の中の男になりたい、と夢見ていたにもかかわらず、ほとんど名前しか知らなかった「オーストラリア」の、それも貧弱な開拓村のしがない教師になるしかなかった青年の幻滅。炭鉱事故で父を亡くし、スコットランドからはるばる僻地オーストラリアの叔父一家に引き取られてきた少年の悲しみ。ヨーロッパの白人文化を持ち込むのではなく、オーストラリアの大地に深く根差した新しい農業、新しい暮らしを、と説き、だれからも相手にされない夢見がちな牧師… …それぞれがそれぞれに壁にはばまれ、外界に対して疎外感や抵抗感を抱き、孤立している。

「孤独」はマルーフの様々な小説を読んでいて、多くの登場人物から感じ取れる特徴なのだが、そのような人物を生み出してきたマルーフの視点の背景のようなものを見つけたと思った瞬間があった。それは自伝的作品集 12 Edmondstone St. に収録されている小品 "The Kyogle Line" を読んだときのことだ。その中で語られていたのはレバノン系移民としてオーストラリア社会に溶け込もうと苦闘した祖父と二世の父、それを見て育ったマルーフの体験 ―住み慣れた土地を泣く泣くあとにし、それまでとはまるで違う気候風土の中で、多数の民族が作り上げてきた社会に新参者として加わり根を下ろさなければならなかった人間の抱いてきた不安や重圧感や疎外感だった。

しかし考えてみれば、この「多民族国家へやって来た新参者」の目線は、最初に述べた異言語、異文化に接したときの違和感や驚きの説明にもなるし、二つ目の特徴のところで述べた「この世界を理解し自分の中に取り入れてしまうと同時に、この世界に取り入れられることをすんなり許してしまう」人々、「オーストラリアを真の意味で自分の祖国にし、そこにどっしりと根を張り、次世代へと確実につないでいった建国の祖」にも通じる。さらに、"The Kyogle Line" の日本語訳「キョーグル線」にはこんな一節もある ── 「父はアラビア語とオーストラリア語を等分に話して育ったことに僕が気付いたのは、ずっと後になってからだ。祖父母はアラビア語以外をほとんど話さなかったのだから。でも僕が知るかぎり、父はたった一語さえアラビア語を発したことはなかったし、理解できることを示すそぶりを見せたことさえなかった」。こういう祖父と父に育てられた三世のマルーフは、母語であるオーストラリア語を自在に操ってすばらしい詩や小説を書きつづけている。どうやら「孤独」だけでなくほかの二つの特徴の背後にも同様に移民三世マルーフの視点がありそうである。移民が作り上げたという独自の歴史を持つ国オーストラリアの代表的作家、マルーフならではの視点が。(ちなみに前述の「キョーグル線」はマルーフでは初の邦訳作品で、『ダイヤモンド・ドッグ―「多文化を映す」現代オーストラリア短編小説集』(現代企画室、2008年)に収録されている)


末筆ながら、創作上の意図、オーストラリア独特の単語や言い回し、文化的背景等に関する訳者の度重なる質問に根気づよく答えてくださり、出版まで終始温かい励ましのお言葉をかけてくださった著者デイヴィッド・マルーフ氏に衷心より御礼申し上げる。また、本書の真価を見抜き、突然の企画提案に独創的なアプローチで応じてくださり、出版までさまざまに労を担ってくださった現代企画室の小倉裕介氏、オーストラリア文学の専門家として企画の推進にご尽力くださり、訳稿に関しても逐一ていねいに目を通してくださり、有益なアドバイスの数々をくださった同志社大学の有満保江先生、同じく、拙訳にていねいに目を通してくださり、貴重なご意見、ご提案をくださった立命館大学の湊圭史先生、この企画の意義を認めて常に強力なバックアップをしてくださったオーストラリア大使館、豪日交流基金の堀田満代氏、企画の実現に向け豊富なアイディアとノウハウを活かして精力的に動いてくださったアートフロントギャラリーの前田礼氏、本書の真髄を実によく表した深く静かな、そしてスタイリッシュな装丁をデザインしてくださったカットクラウドの塩澤文男氏に、心から感謝申し上げる。さらに、原作を紹介してくれた上、原文の解釈についての無数の質問に丁寧に答えてくれた長年の親友キャロライン・井上・グラントさんと、十二年もの長い間、訳稿の作成と推敲を手助けしてくれたマーリンアームズ株式会社の武舎広幸氏に特別の「ありがとう」を贈りたい。

2011年11月
武舎るみ


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