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異境 (オーストラリア現代文学傑作選) デイヴィッド・マルーフ著 武舎るみ訳

登場人物
ジャネットとメグ ── この小説の主要登場人物のひとりとその妹で、オーストラリア生まれの移民二世。両親はスコットランドから移民としてやって来た。
ジェミー ── イギリス人だが、オーストラリアでアボリジニに育てられたのち、地元の開拓村へやって来た。
ハンチェンス婦人 ── 開拓村から少し離れた森の中に住んでいる謎の老婦人。立派な屋敷で暮らし、養蜂をしている。
レオ―ナ ── ハッチェンス夫人の家に同居している若い女性。


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第十五章

蜂に蜜を集めさせているときには、だれも口をきかない。そんな印象をジャネットは持っていたが、実際にはハッチェンス夫人がゆっくりと、絶え間なくしゃべっていた。夫人がそんなことをするのはこの作業のときだけだし、べつに何かを伝えたいわけでもなく、ただの問わず語りにすぎない。特別な目的があるのでもない。夫人のおしゃべりは皆の気持ちを鎮めてくれる「音」なのだ。蜂と、夫人自身と、それから手伝いのジャネットがこの音に包まれ、ひとつになって作業にあたる。この作業には、蜂をも人をも包み込んでまとめてしまう、夫人の静かだが有無を言わせぬおしゃべりが必要なのだ。

もしも「あれはおもしろかったですよ。あの中国人の海賊のお話は」などと言ったら、夫人は驚いたことだろう。そして、そんな話、した覚えないわ、私の頭の中からいったいどうやってあなたへ伝わったのかしら、そういえば、たしかにそんな出来事だかその思い出だかが、あの辺にただよっていたかもしれないわねえ、と言っただろう。むしろ夫人は、黙っていたときに何か言ったと思い込むことが多くて、それがごたごたの原因になるときがあった(レオーナはそう信じていた)。逆に、本当に何か言ったのに、それと気づかないこともよくあった。

養蜂というのは独特な仕事だ。作業中は自分の一部が眠っていて、終わると爽やかに目がさめる。だからジャネットはこの仕事が心底好きで、今では蜂がなくてはならない存在ともなっている。蜂がいないと深く考えることができないとでも言うように。ハッチェンス夫人のことも、最初にして最高の友人だ、最高という点ではこれからもずっと変わらない、と思っている。

この年老いた女性はジャネットに奇妙な影響を与えていた。その影響のもとでなら、まわりの世界もペースを落としてくれるから、ジャネットでもなんとかついていかれる。つまり、ジャネットに言わせれば、物事を本当に見極める余裕ができる、見たものが自分の中に入ってきて、本来の姿を現わすのを目撃する時間ができるのだ。すばらしい影響だ、これは。これがなかったら、とうてい発見できずに終わっただろう、存在を確信できないまま終わっただろう、と思えるものがあった。

ジャネットとメグはジェミーを通してハッチェンス夫人と知り合った。ジェミーは夫人から呼ばれて、蜜蜂の巣箱を作ってほしいと頼まれた。そういうことには詳しいから、一、二度やぶへ入っていって、昔からこの辺にすんでいる針のない小型の蜜蜂の群を探し出してきた。それを夫人は自分の国から持ち込んだ蜂と共に飼っていた。

妹と共に初めてハッチェンス家を訪れたとき、ジャネットは母からことづかった贈り物を抱えていた。ボウルに入れた羊肉のゼリーで、固まった脂肪が表面を覆い、さらにその上から、ハエよけのため四隅にビーズの重りをつけたかぎ針編みのカバーがかけてあった。メグを従え、両手でボウルを胸の前に抱えて、町からの遠い道のりをそろりそろりと歩いてきた。夫人の家を見つけると、二人ともその立派なことに仰天し、ベランダへ通じる階段をのぼって暗く静かな室内に声をかけたが返事がないので、巣箱の置いてある谷へ通じる坂を下りていった。

夫人は遠くからでも見えた。ベールをつけた日よけ帽をかぶり、スカートのすそをたくし上げ、大きな長靴でのそりのそりと歩く姿は別人のようだ。そでから煙がもくもく湧き出ているから、その姿もぼんやりとしか見えない。ひと筋、斜めに差し込んでいる日の光を横切って飛ぶ蜜蜂は、まばゆい閃光のようだった。 ジャネットは夫人が何をしているかは知っていたから、理屈ではわからないことは何もなかったが、それでもその場面には心の片隅で何か引っかかるものがあった。ジャネットの考えの及ばない何かが。ボウルを下へ置き、痛む腕を楽にして、この光景と、それが自分の心の中に引き起こすかすかなざわめき ── ざわめきと言っても、決していやな感じではない ── とに集中したいところだが、とうていできそうにない。蟻どもがすでに足もとをうろつき回っているからだ。今は蜂の死骸を引きずっているが、早くもボウルのにおいをかぎつけて、中身は何なのかと偵察役の蟻が這い登ってきていた。それを片足で、さらにもう片方の足で、払いのけなければならなかった。

そんなわけで、ジャネットは夫人が作業をしている場所から一メートルと離れていないところで、ボウルを抱えたままメグと共に立っていた。メグはまだ蜂のことがこわくて、ジャネットの後ろに隠れていた。現に、とりわけ大胆なやつが一、二匹飛んできて、かぎ針編みのカバーにとまって歩き回っていたかと思うと、やがてジャネットの手にとまった。ハッチェンスさんったら、歌ってるわ、とジャネットは思った。だが、歌っていたのは蜂だったかもしれない。四方八方へパッと散っては点々と輝き、またいくつかの塊に寄り集まって突進する。煙のにおいが鼻をつき、メグがくしゃみをした。

「おや」と夫人が叫んだ。「あなた、どこの子?」。ジャネットひとりしか見えないようだ。夫人はこちらにやって来た。たくし上げた左右のそでのひだのあいだで、のたうちまわっている蜂もいれば、ベールに点々ととまっているのもいる。「こわくないからね」

「こわがってなんかいません」とジャネットは言った。しゃちこばっているのは、長いことボウルを抱えている両腕が痛いせいだ。

「そう?」

夫人はジャネットをじっと見つめた。

「それに、こわがる必要もないわ。蜂は煙で眠くなるの」。そう言うと、夫人は二人のほうへ煙を送った。

「あらあら、二人いたの」

その後、二人でハッチェンス家を頻繁に訪れるようになり、家の中や、そこに飾ってある貴重な品々を見せてもらうようになったが、ジャネットにとって何よりも大きな魅力を持っていたのは夫人自身と蜜蜂の巣箱だった。木々の下に置いてある巣箱は、閉ざされてひっそりとしているように見えるが、中では猛烈な活動が続いている。それは人間とはまったく別の独立した生活で、独自の組織と目的を持ち、複雑な儀式がいくつもからんでいる。そんな蜜蜂と関わっているときには、人間のほうが蜂のやりかたに完全に従わなければならず、そこのところをジャネットはいたく気に入っているのだった。

いっぽうメグは、ハッチェンス夫人と共に暮らしているレオーナに惹かれていた。ジャネットも食卓で冗談を飛ばしたりからかい合ったりする皆とのつき合いを楽しんではいたが、巣箱のほうがもっと魅力があった。そしてこう考えた。蜜蜂の社会は全体でひとつの「心」を持っている。ほんの一瞬でいい、自分のこの心から抜け出して蜂の「心」の中に入り込めれば、天使であることがどういうことなのかが、ようやくわかるのだが、と。

こんな考えは「幻想」にすぎないと思っていたが、実はそうではなく、もっとたしかで現実的なものだった。蜂が興奮するのだ。ジャネットが無意識のうちに興奮させているらしい。これはジャネットの意志とはまったく関係のない外的なもので、夫人が作業をしているのを初めて見たときに始まった。

あの瞬間の感覚を思い起こすたびに、決まって両腕の痛みと、ボウルと、二重の覆いのことも浮かんでくる。二重の覆いというのは、固まって蓋のようになった脂肪と、ビーズの重しがついたかぎ針編みのカバーのことだ。地面を離れて、ふわりと浮き上がりたい、と思ったとしても、ジャネットはその二重の覆いで大地にしっかりとしばりつけられているのだった。だが、もっと強くあのときの感覚と結びついて思い出されてくるのは、蜂の立てる音だ。無数の毛むくじゃらの頭に鳴り響く、震えを帯びたひとつの言葉。それが全部合わさって、いっそう大きく響き渡るさまを思い出すのだ。だからジャネットは、個々の体を持つ蜂がいったい何者なのかだけでなく、なぜ存在するのかまで、即座に理解してしまった。とろりとした蜂蜜のことや、蜂がそれを周辺一帯から集めてきた花粉から作り上げる過程を。放たれた蜜蜂は、ユーカリノキやバンクシアの花、ユータクシアの茂みで蜜を吸い、花粉を集め、沼の水を飲み、それがぼってりとした黄金色の蜂蜜になる。スプーンですくい上げれば透明な糸となってゆっくり垂れ、いつまでも途切れることがない。

その後、ジャネットは夫人の助手になって、自分専用のベールつきの日よけ帽をかぶるようになり、じきにほとんど夫人に負けないほどまで腕を上げてしまった。しかしそれより前に、ある出来事が起こった。ジャネットがじっくり腰を据えて ── 結局、一生 ── この仕事に取り組むようになるきっかけとなった出来事が。

それはジェミーがハッチェンス家の小部屋に移ってまもなくのことだったから、ジャネットはもう「初心者」ではなかった。その日、蜂に蜜を集めさせる作業はすでに終わっていて、ジャネットもベールつきの帽子を脱いでいた。

いつになく蒸し暑くうっとうしい日で、ここ一時間というもの、縁の緑がかったあかがね色の雲がどんよりと垂れ込め、視界がきかない。不意に森の中で風の立つ音がしたが、こちらへは吹いてこなかった。と、ジャネットが今吸った息を吐く暇もなく、その息が叫びとなって出る間も置かずに、蜜蜂の群がわっとジャネットにたかった。空がにわかにかき曇って、いきなり夜になったような素早さだった。かろうじて自分の両手が、生きた豪華な毛皮の手袋に覆われるのを見る間はあったが、たちまち全身を覆われ、何百匹という蜂の立てる音がひとつに合わさって ── ひとつの心となって ── それがジャネットを激しく抱きしめた。

ジャネット自身の心は体の中でぴったり蓋を閉ざしてしまった。あらゆる感覚が失せて、自分の足が、輪郭の定かでなくなった両手が、今どこにあるのか、一瞬前にしていたように、ほの暗い森の中に今も立っているのか、それとも地面から浮き上がってしまったのか、まったくわからない。

蜂はお腹がいっぱいだから刺さないわよ、と心の声が言った。じっと立ってなさい、じっと。それはいつもの自分の心が発する声だった。

そこで、絵の中の人物のようにじっと立ち、息もしなかった。すべてをゆだねてしまった。 おまえはわれわれの花嫁だ。新たにジャネットのものとなった別の心が、地面の少し上でぶんぶん鳴り響き、揺れながらジャネットに話しかけてきた。ああ、そういうことなの!蜂どもはねばっこい血の流れをかぎつけた。血を蜂蜜だと思ったのだ。たしかにそのとおりだ。 ハッチェンス夫人は、ジャネットからわずか三十センチほどのところにいた。ジェミーもそうだった。ジャネットは自分の体が立てている鈍い音のむこうから、二人が自分に呼びかけている声を聞いた。だが、こうなっては一メートル離れていようが一千年隔たっていようが、変わりがない。まったくない。ジャネットが少女であろうが、大人の女であろうが、木であろうが。ジャネットは眠りなが ら立っていた。まっすぐ。花嫁なのだ。それから、喉にいがらっぽい煙が流れ込んできたと思ったら、雲が晴れ始めた。そして、ほら、雲の裂け目から夫人が見えた。夫人の左右のそでから煙がもくもくと湧き出ている。ジェミーはぽかんと口をあけ、両腕で巣箱の木枠を抱えている。蜂は一匹ずつ、やがてひと握りほどの塊になって、外皮がボロボロはげ落ちるように離れていき、しまいにジャネットはまた自分の皮膚にだけ包まれて立っていた。その皮膚の、空気に触れているところが爽やかだ。今はもう、鈍重なやつらが二、三十匹残っているだけで、そいつらは足がからまったりして取り残され、大あわてにあわてて、毛むくじゃらの頭で突いたり足で蹴ったりしている。

ジャネットは夫人の両手が自分の肌に触れるのを感じた。もう何もついていない無傷の皮膚であるにもかかわらず、まったく別の新しい皮膚になったような気がする。夫人はおそるおそる介抱してくれ、ジェミーはあわれっぽい泣き声を立てていたが、そのあいだじゅうジャネットは少しぼうっとしていた。両足で地面をしっかり踏みしめ、なかば眠ったまま、蜂が行ってしまったことを残念がりながら。

それから何年もあとの話だが、ジャネットは蜂の専門家になる。ハッチェンス夫人にはおそらく思いもよらなかったような優秀な専門家に。雑種も含めてあらゆる品種を知り尽くし、新種さえひとつふたつ創り出した。ジャネットが名づけてやるまでは人類に知られることもなかった群を生み出したのだ。蜂という生き物に人生をささげて、日々実地の研究を重ねた。習性を調べ、データを集め、蜂と人間の長い関わり合いの歴史という知識を吸収し、あの瞬間、あの木の下で、この肉体を通して味わった、あのすばらしい経験について考え続けた。あのときジャネットの心は、一瞬ではあったが、蜂が作り出す肉体のない心となり、万物の変遷と神秘に引き込まれたのだった。

というのも、あのときジャネットを求めたのは蜂そのものではなかったからだ。蜂どもは羽をはやした小さな使いにすぎなかった。武装し、毛むくじゃらの頭をした小さな天使たち。もしあのときジャネットが動転し、取り乱したりしていたら闖入ちんにゅう者にその場で刺し殺されてしまっていたかもしれない。巨体を揺すってぶざまに踏み込んできた愚かな闖入者として。

だが、こうしたことは皆、まだ先のことだ。今、ジャネットは自分に降りかかった出来事の衝撃で、まだぼんやりしていたが、今度は夫人をなぐさめる側にまわった。腰を抜かした夫人は、突然ぐにゃりと溶けてしまった岩のようにへたり込んで泣きじゃくり、落ち着きを取り戻すまでしばらくかかった。

「気を鎮めてくださいな、おばさま」。ジャネットはいっぺんにいくつも年を取ってしまったような気がしたが、声はふだんと変わらなかった。「蜂は私に傷ひとつつけませんでした。なんにもしないってわかってましたし。前におばさまが教えてくださったことを、私、覚えてたんですから。お言葉のとおりでした、刺しませんでした」

夫人がジャネットほど蜂を信じていたわけではなかったことが、顔を見てわかった。そう、ジャネットを救ったのは、それだった。固く信じる心が持つ力。単なるひとつの出来事を奇跡に変えてしまえるほどの信念の力。ジャネットはなかば夢見ごこちで歩み寄り、巣箱を見つめた。どれも今はぴったりと蓋をされて、 あの雲が、まだぶんぶんうなりながら四角な箱の中に閉じ込められている。それがさっきジャネットの全身を覆った。生きた暗黒。だから光明といえば、生きた粒子として、小さな炎の集まりとして蜂が作り上げた「皮膚」に覆われ、空洞と化したジャネットの内部から発せられていた光だけだった。

炎の皮膚に包まれながら、中にいるジャネットは終始冷静だった。そして炎が去っていったとき、ジャネットが取り戻したのは、新しい形を持った、以前より簡素な自分だった。新しい体を持って出てきたのだ。世界は ── ここが大事なところなのだが ── その体と極限まで交わってから解放した。

そしてその体を、世界はこの先ずっと、いかなる状況でも壊せまい。

ハッチェンス夫人の目に、自分がちっとも変わっていないように映っていることは、ジャネットにとっては大きな驚きだった。自分の目から見たら、今こうして自分が入ってその二本の脚で立っているこの体は、少し前のものとはまったく違っているのに。

ジャネットは夫人の背後の、ほんの少し前に自分が立っていた場所に目をやった。そこに見えたのは、自分自身 ── 色あせたスモックを着たおさげ髪の不細工な子供 ── ではなく、真っ黒に焼け焦げて、今なおくすぶっている切り株だった。目を移して、仰天したジェミーと視線が合った途端、確信した。切り株を見ているこの目は、ジェミーの目なのだ、と。


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