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マーリンアームズ株式会社

DHC翻訳若葉荘「本日の講義」

第22回  翻訳を科学する その11 バランスを科学する(1) (2007年1月配信)

「アイタタタタタッ」

ある日の朝のことです。一仕事を終え、散歩に出かけようとトレーナーに袖を通し、頭を入れて裾を下に引っ張ろうとしたその瞬間、背中に激痛が走りました。そのとき取りかかっていた本の翻訳も残りわずかになり、「予定よりだいぶ遅れてしまったから、ラストスパートをかけねば」と思っていたときのことです。

あまりの痛みに、その場に座り込んでしまって動けません。しばらくじっとしていると少し落ち着きましたが、無理に動くと背中の筋を激しく痛めてしまいそうで、怖くてすぐに立ち上がれません。少しずつ、少しずつ筋を伸ばしながら何分かかけて徐々に徐々に体を起こし、何とか立ち上がることができました。その日は1日、ストレッチをしたり、散歩をしたり、気功(!)をしたりして、休養を取ることにしました。その後1週間ほど、休憩を頻繁に入れて限界点を超えてしまわないよう体をダマシダマシ作業を続け、何とかその本の翻訳を終えることができました。

翻訳をしているときは、その本の世界にどっぷりと浸るみことになります。この傾向はとくに小説やノンフィクションなど、どちらかというと文系の本に顕著で、たとえば新製品の開発物語だったりすると「がんばれ、がんばれ、あと一歩で完成だ!」などと、登場人物を応援しながら訳すことになります。素晴らしい小説やノンフィクションは、たちまちのうちに読者を本の中の世界へとワープさせてくれますが、普通の本ならば長くても数日もあれば読めてしまいますから、本の世界に浸る時間を比べれば、翻訳者の方が何十倍、何百倍も長いのです。

このとき翻訳した本『スケーラブルWebサイト』は技術書の中では私が今までに経験したことがないほど「のめり込み度」が激しい本でした。この本の中で、著者のCal Henderson氏は、Flickrという写真共有サイトの開発に際して今までに経験したこと、ごく小規模なところからはじめて、世界一のサイトを構築・運営するまでに成長した、その経験の過程で獲得した大量の知識を惜しげもなく披露してくれています。弓矢の名手から放たれた矢が的の中央を次から次へと射抜いていくように、敵をコーナーに追いつめたボクサーが「これでもか、これでもか」とパンチを繰り出すように。

Yahoo!やFlickr(現在FlickrはYahoo!の一部になっています)、GoogleやYouTubeなど、インターネットの世界を華やかに飾るウェブアプリケーションの開発、展開には、さまざまな知識が必要とされます。その上、競争に勝つためには誰にも負けないアイディアと資金力、そして運も必要でしょう。こういった事柄について、原著者がこれまでに獲得したノウハウや発想、思想が言葉の端端からあふれ出てくるのです。

著者の世界に入ってあまりの迫力に圧倒された私は、原著者から放たれた矢の一本を避けきれずに、背中に受けてしまったというわけです。幸いなことに急所ははずれていたので、無事に翻訳を終えることができましたが、これまでの経験がなければ、途中でばったりと倒れてしまっていたかもしれません。

「ばったりと倒れる」で思い出したのですが、昔こんなこともありました。4年ほど前、大学の先輩で優秀な翻訳者Fさんに、お手伝いいただいた翻訳の原稿料の振込を予約しておきました。振込予約が実行されるはずのその日に、銀行から電話がかかってきました。「Fさんは亡くなられて口座が閉じられたので、振込ができません」。「え〜っ」と驚いて、Fさんのお宅に電話をすると、電話に出られた娘さんらしき方がやけにトゲトゲしいしい物言いなのです。

Fさんには、毎月定期的にあるレポートの翻訳を手伝っていただいていました。毎年ある時期になると期間限定の大きな仕事があるらしく「今月と来月は、別件でお手伝いできません」とメールで連絡をくれていました。「はい、分かりました。終わったらまたお願いします」と返事を出したのが、この世でのFさんとのお別れになってしまったというわけです(ご冥福をお祈りいたします)。

ここから先はあくまでも推測なのですが、しっかり仕事をしてくださっていたFさんのことなので、締切に遅れまいとかなり無理をなさってしまったのではないかと思うのです。「母親を殺した張本人が、よくもノコノコと電話をかけてきたものだ」と娘さんに思われてしまったのかもしれません。

毎日パソコンに向かって翻訳をなさっていらっしゃる方はご存じだと思いますが、翻訳者として成功するためには、英語や日本語の力だけでなく、体力や精神力も必要です。体調管理の術と言った方がよいでしょうか。いくら締切が迫っているからといって、無茶をしすぎると体が動かなくなって入院、かえってクライアントに大きな迷惑をかけることになってしまいます。

納期を守ることはとてもとても大切なことですが、体を壊しては元も子もありません。とくに、中高年の方々、「定年後に翻訳でもやって一稼ぎするか」などとお考えの方は、体調管理に十分気をつけてください。気功でもヨガでも散歩でも、水泳でもいいですから、自分なりの養生法を見つけ出して、心と体のバランスを維持して翻訳を続けていきましょう。

バランスという言葉が登場した(無理矢理登場させた?)ところで、今日の講義のタイトルは「バランスを科学する」です。体と心のバランスは大切ですが、翻訳でもバランス — 釣り合い — を考えることは大切なのです。

釣り合いを取るものといえば、天秤が思い浮かびます。左の皿と右の皿に載っているものの重さが等しければ天秤は平衡状態を保ちますが、バランスが崩れるとどちらかに傾いてしまいます。翻訳のバランスが崩れると、読みにくい訳文になることが多いですし、そもそも原文で天秤の両側にあったはずのものが、訳文では変な風に右と左の皿に分かれてしまっていたら、それは誤訳ということになってしまいます。

英語や日本語などの「言語」の構成要素で天秤の役割をするものといえば、文法用語でいうところの「等位接続詞(coordinate conjunction)」がまず思い浮かぶでしょう。日本語なら「と」「および」「あるいは」「または」など。英語ならand、or、butなどです。考え方によっては、「as well as」などというのも同類だと思ってもよいかもしれません。

真正面に等位接続詞から攻めていってもよいのですが、今回はちょっと横から攻めてみましょう。等位接続詞でなくても、バランス(釣り合い)を考える必要があるものがあるのです。

例文とその訳例を見てみましょう。

Surface currents affect only about 10 per cent of ocean water, but they are important to the world's climate (see p. 66), because their overall effect is to transfer huge amounts of heat energy from the tropics to cooler parts of the globe.
(『Ocean』Robert Dinwiddie他著、p. 58)。

butは節と節をつなぐ等位接続詞ですが、ここで問題にするのはこれではなく、「(see p. 66)」の部分です。これ含む節「they are important to the world's climate (see p. 66)」の訳文を考えてみましょう。じつは、この文は構文的には曖昧な文で、(私が昔から研究・開発している)翻訳ソフトに訳させると、大きく分けると次のような2つの解釈が出てきます。

1-a (それらは)世界の気候(66ページ参照)にとって重要である。
1-b (それらは)世界の気候にとって重要である(66ページ参照)。

そして、ある翻訳者の方にお願いしたときには、1-aのような訳が戻ってきました。正解はというと、これは正確には66ページの内容を見ないと分からないのですが、1-bの方なのです。

括弧の中味は、その前の要素のどれかと釣り合っているのが原則です。1-aの訳ですと、括弧内がthe world's climateと釣り合っていることになりますし、1-bだどthey are ...から始まる節全体と釣り合っていることになります。

構文だけから見ると、「世界の気候」という名詞句について「(66ページ参照)」と説明するのも別段悪くないように思えるかもしれませんが、世界の気候について1ページで説明することはあまりありそうにありません。「世界の気候にとってそれら(表層海流)が重要である」という事実がそのページで説明されていると想像するのが普通でしょう。そして、現に66ページには海流が気候に与える影響が説明されているのです。

括弧が出てきたとき、それがどの部分と釣り合っているのか、どの部分について説明しているのかを常に意識しましょう。これで、誤訳の源がひとつ確実に減らせることになります。

さて、だいぶ長くなってきましたので、この続きは次回にしましょう。次回取り上げる例文を書いておきますので、お時間のある方はどこのバランスが問題となりそうなのか、考えてみてください。ハリケーン「カトリーナ」の被害について記述した文です。ひろし君! ちゃんと考えておくナリヨ!

The high winds and a storm surge about 10m (33ft) high -- the highest ever along this coastline -- devastated homes, restaurants, beach-front casinos, and shrimpfishing businesses.
(同書、p. 73より)

最後になりますが、若葉荘臨時増刊号の「翻訳スタッフ募集」にご応募いただいた皆さん、ありがとうございました。予想よりもはるかに多くの方のご応募をいただいたため、本当は「合格」にしてお手伝いいただこうと思っていたレベルの方もお断りしなければなりませんでした。あしからずご了承ください。これに懲りずに、またの機会にご応募いただければ幸いです。宣伝になってしまって申し訳ないのですが「もっとていねいに私の実力を見てくれ〜」とお思いの方はDHC-オンライン講座(http://www.dhc-online.com/)の添削をお申し込みください。ていねいに拝見・添削して、「この方なら大丈夫」と思われる方にはお手伝いをお願いしますので……。


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