DHC翻訳若葉荘「本日の講義」
第27回 翻訳を科学する その17 引用符を科学する (2007年11月配信)
20年ほど前のこと、私は留学生としての生活を前にして米国東部の某大学の英語講座に出席していました。何を説明しているときだったか忘れましたが、説明の途中で先生が両手の中指と人差し指を使って2つのVサインのような形を作り、左右の耳の横あたりに上げ、人差し指と中指を曲げたり伸ばしたりクニクニ上下に動かしていました。
「そのウサギの耳のような格好は何ですか?」と(英語で)誰かが尋ねると、次のような返事が返ってきました。
"Quotes!"
映画などでも時々登場するので、注目してみてください。「これは文字どおりには受け取らないでね」といったニュアンスのことを言いながら、この仕草をしている場面に出会うはずです。
前回の講義で『...』と「...」(鉤括弧)について科学しましたが、今回はウサギの長い耳を頭に浮かべつつ、鉤括弧に対応する英語の記号である "..." と '...' (引用符、quotes、quotation marks)について検討してみましょう。
じつは、翻訳講座の受講生の添削課題を拝見するとき、とても気になるのがこの引用符の使用法なのです。 "..." も '...' も、日本語に昔からあった記号ではなく、外国語から借用されたものです。この点については、以前この講義でも取り上げた句読点の「。」や「、」と共通です。句読点は元々日本語にはなかったものですが、便利なので日本語に「輸入」されたものです。
中学校の授業で、日本語の「...」 に対応するのは "..." で、『...』に対応するのが '...' だと習った方も多いと思いますが、日本語には英語の引用符に対応する鉤括弧が存在しています。したがって、引用符をあえて使う必然性はないのです。
この講義でも何度か言ったと思いますが、翻訳は基本的には「保守的な」作業です。原文に書かれている内容全体を、違和感のない自然な日本語で表現して読者に内容を伝える作業です。したがって、読者が違和感をおぼえるようなものはできるだけ排除するのが原則です。日本語に鉤括弧が存在しているのだから、とくに年配の方々などが違和感をもつ可能性がある引用符は使わない方がよいのです。
多くの受講生の皆さんが入っていこうとしている出版翻訳の世界では、縦書きの文化がまだまだ主流です。横書きのワープロで作成した原稿とはいえ、引用文を(鉤括弧ではなく)引用符で囲んだ原稿を出したら、編集者に「こいつは素人だな」と思われてしまうことでしょう。縦書きの文章で、引用符を使って引用などを表現するのはちょっと難しそうです。
このような理由で、添削課題の採点の際には「日本語では鉤括弧を用いるのが原則です」とコメントをして、訂正させていただいています。
もちろん、友人に送るメールならば引用符を用いてもまったく問題ありませんし、フォーマルな文章でも最終的に横書きになる世界の原稿ならば、引用符を用いるのもひとつの選択肢となるでしょう。
横書きの世界の例としてテレビに表示される「テロップ」に注目してみましょう。まず、ある日の公共放送のニュースを見てみると、次のように引用符や鉤括弧が使われていました(引用の終わりを示す記号の「”」は、「,」のように行の下の方にあるのですが、メルマガの原稿ではその記号が使えないので、読み替えてください)。
文部科学省
“透明化はかる必要ある”「部会」の議論概要
公表検討へ「部会」に沖縄近現代史に詳しい専門家いないとの指摘も
別のニュースは、ちょっと恐ろしい内容です。警察官や弁護士も、無条件では信じてはいけない時代になってしまったようです。
“黙秘するよう脅迫”
東京の弁護士逮捕“余計なことしゃべったら交際相手などどうなっても知らない”
脅した疑い容疑者 “正直に話したい”
弁護士 接見室の仕切板たたいて脅す
どうやら、このテレビ局では引用には引用符(“...”)を用い、「部会」などのように語句を目立たせる目的で鉤括弧を用いているようです。テロップでは簡潔な表現が求められますので、引用符と鉤括弧の役割を分けることによって、短くてもできるだけ正確に内容を伝えようとしているのでしょう。
別の局のニュースのテロップを見てみましょう(引用の終わりを示す「”」は、上のテレビ局の場合と違って、行の上の方にチョンチョンがあるパソコンで普通に表示される文字が使われています)。
秋の“バーガー戦争”
勝ち残る鍵は…ヤンキース“解体”で松井も放出か
携帯で「位置確認サービス」がスタート!
今あなたはどこにいますか?福山雅治「自慢なのは…」
“よだれは出ないんですか?”
って聞いたら 出ます! って言っていた
こちらのテレビ局のテロップは、こうしてほんの数分の間に表示された内容を見ただけでも、一貫性を重視しているようには思えませんね。前回のメルマガでみた鉤括弧の役目を、引用符と鉤括弧の両方(それに色まで)使って、表現しています。
こういったテロップを毎日ご覧になっている皆さんが、添削課題の翻訳で英語の引用符をそのまま用いられるのは無理もないところなのかもしれませんね。でも、英和辞典に載っている訳語を何も考えずに用いてはいけないのと同じこと、引用符などの記号も何も考えずに用いてはいけないのです。その記号にはどんな意味があるのか、読者はどう受け取るのか、常に考えて用いてください。
それでは、また次回。次回は「翻訳を科学する」の最終回の予定です。
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