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Scaling Teams 開発チーム 組織と人の成長戦略
Alexander Grosse & David Loftesness著    武舎るみ+武舎広幸訳

訳者あとがき

本書はGAFAをはじめとする巨大IT企業ならば必ず通過してきた、また成長途中にある企業ならば必ず通過しなければならない規模拡大期にまつわる数々の問題を乗り切るための「マニュアル」である。著者二人のそうした時期の(主に失敗の)体験をベースに、知人や各種文献の知恵も借りて「こんなときには(あるいはこんなことが起こったら)こんな対策をしてみたらどうだろう」というアドバイスを集めたものだ。

我々訳者は二人で小さな会社を経営している。創業以来、バブル崩壊後の日本をなんとか生き抜いてきたが、社員の総数は多いときでも4人、ここしばらくはずっと2人きりというわけで、我が社は本書の主題である社員の急増期は体験したことがない。このため我々は厳密な意味では「本書の対象読者」ではないが、「そうそう、このパターンある、ある。こういうのは徹底排除しかないよな」などと著者らに賛同したくなる場面も多かったし、「創業時にこの章を読んでいれば、我が社ももう少し別の道を歩んでいたかな」と後悔の念に駆られたこともあった(いやいや、今からでも遅くはない。これからそういう場面があるかもしれないのだから、この本で得た知識を生かさなければ)。

どの章もていねいに書かれており、著者二人の誠実な人柄が感じられる本であるが、「文化」と「価値観」を議論している第9章は特におすすめだ。この「訳者あとがき」を最初に(本文の前に)読み始めた方*1なら、企業経営に「文化」や「価値観」がどう関わってくるのかと疑問をもつかもしれないが、「米国に巨大IT企業が多いのは、ひとつにはこういったことに正面から取り組んでいるからかもしれない」と感じさせる章だった*2

ただ、自分たちの会社ではないのだが、訳者の一人(武舎広幸)は急成長期のIT企業に身をおいた経験がある。2000年の夏のこと。韓国ソウル、カンナム地区の9階建てのビルの5階、翻訳ソフト開発会社の会議室。大きな地球儀が置かれたテーブルを囲むように集まった数十人の社員を前に、私は取締役就任のあいさつをした。

皆さんの中には、テレビに紹介されたりして、儲かりそうだと思ってこの会社に入った方もいらっしゃるかと思います。でも、お金儲けのことだけを考えるのではなく、皆さんに楽しんで仕事をしていただけたらとも思っています。

機械翻訳ソフトの開発は、とても面白い仕事なのです。言葉に興味のある方なら、一度始めたらやめられない、趣味と実益を兼ね備えた理想の仕事だと思います。

素晴らしいと思いませんか? ほかの国の言葉で書かれた文章を、自分の会社が開発したソフトが韓国語にしてくれる。クリックひとつで、英語のウェブページが韓国語になってしまうのです。そんな、この国ではまだ誰もやっていないことを我々は始めたのです。

そんなエキサイティングな会社で働ける幸せを、しっかり味わいながら、一緒に仕事ができることをとても楽しみにしています。

昔のことゆえ、少し脚色してしまったかもしれないが、こんな趣旨のことを(自分としては)熱く語った記憶がある。

しかし今になって思うのだ。このスピーチは、多くの役員や社員とは相容れない「価値観の表明」だったのではないかと。

開発チームを前にしたスピーチだったら、悪くなかったかもしれない。だが、そもそも英→韓の翻訳ソフトを開発・販売する会社であるにも関わらず、当時の社長は英語が話せなかった。社員の中でも私と(英語あるいは日本語で)直接コミュニケーションが取れる人は数えるほどだった。言葉に人並み以上の関心をもっていた人は少なかったのだ。

そもそも、かなり無茶苦茶な韓国行きだった。当時、日本の翻訳ソフト開発会社(A社)の仕事を請け負い、同社の取締役にも名を連ねていたのだが、A社の社長との間がギクシャクして、半分、現実逃避のために決めてしまったようなものだ。「この人たち、いい人だから、韓国にしばらく住んでもいいよ」という、もうひとりの取締役(兼配偶者)のつぶやきに乗っかる形で。「何かに導かれるがごとく」というよりは「何の考えもなしに」。

仮にも会社の役員になるのなら、どんな会社を目指しているのか、どんな「文化」や「価値観」を大切にするのか、議論してから引き受けるべきだったのだ。それをしておけば、数年後に訪れたA社倒産の危機も、回避する手伝いができたのかもしれない。

しかし、こうも思うのだ。あそこで韓国側との議論の結果、韓国行きを断念していたら、韓国人の心根の優しさに触れる機会も数々の思い出を作る機会もできなかったし、私が大好きになった韓国料理(蔘鶏湯サムゲタン海苔巻きキムパプ)を知ることもなかったと。それまでの日常と変わらない、ある意味「フツー」の生活を送るだけで終わったかもしれないと。身も心も元気なら、後先あとさきを考えずに未知の世界に飛び込んでみるのも悪くないのかもしれないと。

人生に「正解」はないのだ。著者二人も、失敗体験があったからこそ、このユニークな本を世に出すことができたのだから。

最後に、この善意あふれる中身の濃い本を翻訳する機会を与えてくださった、伊佐知子氏を始めとするマイナビ出版の方々に心から感謝申し上げる(新型コロナウィルスの感染が早く終息して、出版記念の打ち上げが無事できますように)。

2020年5月5日
マーリンアームズ株式会社
武舎広幸 武舎るみ

[*1] ちなみに、我々の知る翻訳者の多くは「訳者あとがき」を最初に読む。ご同業に敬意を表してなのか、競合相手の実力を見定めようとしているのか、定かではないが。

[*2] 最初の3章は、採用に関するかなり詳細な解説だ。創業前や創業後まもない人なら、この3つの章は軽く目を通すだけで、第4章から本腰を入れて読んでもよい。あとで本格的に人を雇うようになったら、改めて読み直していただければと思う。逆に採用で困っているなら、第1章から第3章が大いに参考になるだろう。

著者紹介

アレクサンダー・グロース(Alexander Grosse)は現在、デジタルカタログ制作・共有サービス「issuuイシュー」のエンジニアリング担当バイスプレジデントである。それ以前はSoundCloudのエンジニアリング担当バイスプレジデントを、さらにそれ以前はNokiaの研究開発責任者を務めた。

デイビッド・ロフテスネス(David Loftesness)はTwitter、ブックマーク共有サービスXmarksXマークス、検索技術を専門とするAmazonの子会社A9エーナイン、Amazonの各社で技術チームを率いていた。現在は、父親業、スタートアップへの助言、新任管理者のメンタリング、執筆にいそしんでいる。

訳者紹介

武舎 るみ(むしゃ るみ)

学習院大学文学部英米文学科卒。マーリンアームズ株式会社(https://www.marlin-arms.co.jp/)代表取締役。心理学およびコンピュータ関連のノンフィクションや技術書、フィクションなどの翻訳を行っている。訳書に『エンジニアのためのマネジメントキャリアパス』『ゲームストーミング』『iPhoneアプリ設計の極意』『リファクタリング・ウェットウェア』(以上オライリー・ジャパン)、『異境(オーストラリア現代文学傑作選)』(現代企画室)、『いまがわかる! 世界なるほど大百科』(河出書房新社)、『プレクサス』(水声社)、『神話がわたしたちに語ること』(角川書店)、『アップル・コンフィデンシャル2.5J』(アスペクト)など多数がある。https://www.musha.com/にウェブページ。

武舎 広幸(むしゃ ひろゆき) 

国際基督教大学、山梨大学大学院を経て東京工業大学大学院博士後期課程修了。マーリンアームズ株式会社(https://www.marlin-arms.co.jp/)代表取締役。翻訳および翻訳者向けの辞書サイト(https://www.dictjuggler.net/)の運営、自然言語処理ソフトウェアの開発、プログラミングおよびストレッチの講師などを行っている。日本および韓国で翻訳ソフト開発会社の取締役を勤めたほか、大手辞書サイト運営企業やリコメンデーションエンジン開発企業の草創期にコンサルティングを行った経験をもつ。訳書に『インタフェースデザインの心理学』(オライリー・ジャパン)、『Java言語入門』(ピアソンエデュケーション)、『マッキントッシュ物語』(翔泳社)など多数がある。https://www.musha.com/にウェブページ。